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サンダース・ペリー誕生秘話


SP物語

どこにでもある、
台所の調理器具を使って始まった、ロナルド・ジョン・ハリントンの
自然化粧品づくりの夢が結実したのは、
1947年のことでした。



海沿いの美しい街、コーンウォールの
ピュアな海、空、そして大地。
そんな理想的な土地との出逢いはめざましい発展を
遂げることができました。



サンダース夫妻によって
大きく、深くはぐくまれたロナルドの理念は、
サンダース・ペリー化粧品の中に
しっかりと息づいています。


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サンダース・ペリーのはじまり



ロナルドハリントンは、
チャールズ・ペリー社製品の理念の原点を確立した人物です。
第一章はロナルドの実姉パメラから彼女の夫レスリーに伝えられた、
ロナルド氏の幼少期の逸話から、
弟の夢を夫妻で実現し、チャールズ・ペリー社を
大きく発展させるまでとなった回想録を
レスリー・サンダースが記したものです。


植物好きの子どもロナルド




 チャールズペリー社の創始者、ロナルド・ジョン・ハリントンは
1933年11月17日、ロンドンから20キロほど離れたヘストンで生まれました。そして彼が2歳の時、両親と一緒にロンドン郊外のペリベールに転居しました。



チャールズ・ペリー命名




 ロナルドの父クレメントはイギリス最大の掃除機メーカー、フーバー社の重役、母シャルロットは美容師でした。
 シャルロットがピットシャンジャー・レーンのショッピングセンターのそばに2階建ての店舗を借り、そこで彼女の美容室とともに、ロナルドの化粧品製造開発が始まりました。会社名を決めるときにはいくつもの案が出されました。中でも有力だったのは、ロナルドのミドルネームであるジョンと住んでいる町ペリベールを縮小させたものを組み合わせた名前でした。しかしこれは言葉の響があまり良くないので、結局親しい友人の名前で響の良いチャールズを使うことに決まりました。こうしてチャールズ・ペリー社が誕生したのです。



 彼は幼い頃から天然ハーブに興味を示し、台所のボウルを使ってさまざまな原料を混ぜ合わせるのが大好きな子供だったそうです。  
 そんな遊びの中でできあがったのがオリジナル化粧品を実際に肌に塗って試したのが、姉のパメラだったというわけです。パメラはその使い心地をとても気に入り、それによって自信を得たロナルドはさらに工夫を重ねる・・・・・
 まるで遊びの延長の様に、さまざまな発明や研究を楽しんだ幼い頃の彼は又、その分野での学習にもとても熱心でした。フランス語・ドイツ語・スペイン語・エスペラント語を流暢に話し、ロシア語に至っては、英王室空軍の通訳として何年も活躍した程でした。思えば、そんな時代がチャールズ・ペリー社の始まりだったのです。



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自然化粧品の開発




 ロナルドが本格的に自然化粧品の開発を始めたのは、18歳の時でした。ボウルの中から次々と生まれる作品は、遊びや趣味の域を超えて彼の生活の中で大きな位置を占め始め、社会的にも非常に意義のあるものだという事に気がついたからです。
 エッセンシャルオイルなどに、日本で採れる寒天や精製水などを混ぜ合わせるなど、自然化粧品の研究が本格的に始まったのは、この頃からです。この時いくつもの試作を重ねて出来上がった作品が、やがてチャールズ・ペリー社の製品の基礎となりました。



世界への道




 1950年代までに、チャールズ・ペリー社の知名度はどんどん高まり、ロンドン郊外の高級住宅地イーリングの近くにショップを開くに至りました。この時、24種類のクリーム・ローション・化粧水と香水・オーデコロン・タルカムパウダーなどを加えて、製品はかなりの数に増えていました。注文は増える一方でしたが、忙しい時間を割いてロナルドはさらに植物の研究などを進め、雑誌創刊のための原稿を書き始めました。そして、1957年には「ニュービューティー」という16ページの季刊誌として発行されました。ヒマワリの種からロシアの組織治療まで、あらゆるテーマを対象としたこの教養高い小冊子は、1958年に同じ名前の120ページにわたる本として発刊され、日本語にも翻訳されています。何ヶ国語もの語学にたけた彼の才能が、各国での文献研究に生かされた事は言うまでもありません。
 1958年には、チャールズ・ペリー社はイギリス・ハーバリスト(漢方医)組合の3001番目の正会員として登録されました。国内外に多くの販売店ができ、みるみるうちに多量の注文が入り始めました。チャールズ・ペリー社の前に世界への道が広がっている事は、誰の目にも明らかでした。



突然の死




 それは1960年9月9日、突然中断されました。
 多くの大手化粧品会社が真似ようとしても出来なかった自然化粧品を完成させ、またベジタリアン.ハーバリストのサークルでも将来が大いに嘱望されていた矢先の事でした。
 その時ロナルドは、まだ26歳。
 死、という驚愕の出来事が、輝きに満ちた日々を襲ったのです。ロナルドを失ったチャールズ・ペリー社は最初の大きな岐路に立たされてしまいました。


 優秀なスタッフにも恵まれ、健康食品協会に接触したり、ロンドンやイギリス南部の海岸沿いにあるブライトンでの展示会・博覧会などに参加したりと、新しいビジネスの動きが始まりました。
 こうした営業活動は、パメラが磯部氏と出会うチャンスを生み出しました。同社の理念に共感するところのあった磯部氏は、自らピットシャンジャー・レーンを訪れ、その最初の商談でかなりの量の契約が成立しました。磯部氏はこのとき日本向けとして17品目を選び出しましたが、この品目は現在も変わっていません。
 その後、磯部氏は日本に戻ってチャールズ・ペリー社の製品とその理念を広める活動を始め、私達は磯部氏に日本での代理権を与える事になりました。彼は日本で仲間を募り、1974年に輸入及び販売を行う会社として、ナチュラルコスメチック社(その後N.C.インターナショナル社に社名変更)を設立しました。また同じ年に、日本での輸入業者は、日本グランド・シャンパーニュ社に委託されました。



コーンウォールへ




 フローラ・プレイスと名付けられたその建物は、海から吹いてくる澄んだ空気の中に建ち、まさに化粧品製造にふさわしい環境の中にありました。一目見て直感に訴える何かに引かれた私達は、より自然の恵みを取り入れた化粧品の製造を願って、ただちにチャールズ・ペリー社をロンドンから400キロも離れた田舎に移す決心をしました。フローラ・プレイスは私達の描いていた化粧品の製造や販売のための諸条件を十分に満たしていたからです。

 コーンウォールのフローラ・プレイスでは自然化粧品を製造するのに適した環境にするための改築が行われていましたが、長年空き家であり、以前にウェイドブリッジや近隣の村への発電所として使われていたこともあって、簡単には進みませんでした。問題処理に何度もロンドンとコーンウォールを往復しましたがこの状態は2年以上も続きました。


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 さまざまな努力が実って、チャールズ・ペリー社をコーンウォールへ移転する事が出来た私達は、その後も磯部氏と協力してビジネスを進めて行きました。この頃、磯部氏は日本でのビジネス拡大の契機にもなる事を期待して、数多くの関係者を伴いフローラ・プレイスを訪れました。この時点では、注文された商品は個々の製品容器に入れて出荷されていました。
 が、1982年からは17品目のすべてが20リットルのドラム単位で出荷される事になりました。その結果、チャールズ・ペリー社での出荷業務は随分楽なものになりました。


 こうしてチャールズ・ペリー社は、幾度もの危機を乗り越えて成長しました。創始者ロナルドによって生命を得、姉のパメラ・サンダースが夫と共に育てたチャールズ・ペリー社の製品は、新しい時代の息吹となり、次第に大きな潮流を起こしました。
 今世界中で関心の的となっている、自然、この自然の持つお肌への働きにいち早く着眼し、植物化粧品として世界に送り出した功績は、大きく讃えられてよいでしょう。
 人も大自然の一部です。私達は、大きな自然のサイクルの中で生きています。大自然の恵みを受けて、のびのびと息づいている植物たちの生命力は、肌の活性化に大きな効果をもたらします。
 
 サンダース・ペリー化粧品は、もっとも自然に近い植物性化粧品です。大自然の持つ、素晴らしい力、この大切な意味を多くの方に広め、もっと健やかな美しい肌作りに貢献したい・・・チャールズ・ペリー・ジャパンがすすめているのは、マーケットを世界に広げ、自然への深い理解、自然と生きる喜びを、すべての人と分かち合う事なのです。

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